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元外交官のラスプーチン佐藤氏の本「国家の罠」を読んでおもしろいと思い、外交官だった人の書いた本を物色しているうちに、石射猪太郎 著「外交官の一生」(中央公論社 2007年 改版)という本にでくわした。

戦前の外交官の本なので、現代人が読むとわかりにくいことがあったので、ここにまとめておく。

なお、普通の辞書・事典に載っている事柄についてもまとめて掲載しておく。


石射猪太郎「外交官の一生」

セブンネットショッピング
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102409315/



Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/dp/4122048192


発端

P.13

「私は一九〇八(明治四一)年、上海の東亜同文書院を卒業後、折柄できたての満鉄に就職し、大連住い足掛け四年、」

・東亜同文書院


「東亜同文会が中国に設立した学校。「支那保全」を目的とする東亜同文会が1900年(明治33)に開設した南京同文書院を全身とし、上海移転をへて01年に開校。はじめは修業年限3年で政治・商務の2科で構成され、おもに日本政府の補助金と各府県からの留学生派遣費で維持された。21年(大正10)に専門学校として認可され、39年(昭和14)に大学に昇格。日本の敗戦後、資産の一部が愛知大学に継承された。」(日本史広辞典編集委員会 編「山川日本史小辞典 新版」(山川出版社)P.677)

閉学後に帰国した教職員によって1946(昭和21)年に開設されたのが愛知大学である。

(参考HP)
愛知大学:東亜同文書院大学記念センター

www.aichi-u.ac.jp/institution/05.html

東亜同文書院大学同窓会 同窓会報 ホームページ
members2.jcom.home.ne.jp/koyukai/

・満鉄

南満州鉄道会社のこと。


「日露戦争後から第2次大戦期まで日本の満州侵略を中心的に担った国策会社。満鉄と略称。日露戦争の勝利によって東清鉄道南満州支線の長春から旅順まで、撫順・煙台炭坑などロシアの満州における利権の一部を獲得した日本は、その経営のため1906年(明治39)11月南満州鉄道会社を設立。日本政府は、資本金の半額を出資し、各種の保護と監督を加えて満州経営を推進した。本社は当初東京におかれたが、まもなく大連に移転。(中略)第2次大戦後に閉鎖。」(日本史広辞典編集委員会 編「山川日本史小辞典 新版」(山川出版社)P.940)

財団法人 満鉄会
www.01.246.ne.jp/~mateka/


「しかるに家父の事業なるものは、槿花一朝の夢と化し、家父自身が経済的苦境に陥り、私は新婚早々全くの失業者となった」

・槿花一朝の夢(きんかいっちょうのゆめ)


「槿花(きんか)一日(いちじつ)の栄(えい)に同じ。」(Yahoo!辞書 大辞泉)

・槿花一日の栄(きんかいちじつのえい)

「《白居易「放言」から》栄華がはかないこと。一炊の夢。槿花一朝(いっちょう)の夢。」(Yahoo!辞書 大辞泉)

P.14

「そうだ、ここで一つ高文試験を受けて、日本内地での通用価値を身につけることだと思い立ったのである」


・高文試験

高等文官試験のこと。


「第2次大戦前の上級官吏任用試験。正しくは文官高等試験で、高文と略称。1887年(明治20)に導入されて奏任官任用の要件となり、93年の文官任用令で帝国大学法科・文科卒業生の無試験任用特典が廃止されて確立。満20歳以上の男子が有資格者で、年1回試験。憲法などの法律必修科目、選択科目の筆記・口述試験が行われた。合格者は大学及び高文の成績と本人の志望によって各官庁に採用された。採用試験制度は機会均等の役割をはたした反面、学歴・学閥社会を形成することにもなった。第2次大戦後は国家公務員法にもとづく人事院の公務員上級試験に移行した。」(日本史広辞典編集委員会 編「山川日本史小辞典 新版」(山川出版社)P.329)

「独学で法律・経済の書物と首引きを開始したのであるが、受験までの生活費は岳父が引き受けてくれたので、独学に専念することが出来た」


・首引き


「輪にしたひもを向き合って座った二人の首に掛け、互いに引っ張り合って引き寄せられたほうを負けとする遊び。くびっぴき。」(Yahoo!辞書 大辞泉)

本郷向ヶ丘弥生町浅野候邸裏門近くの崖下に借家して妻とともに移り、」


1887(明治20)年、本郷区向ヶ岡弥生町(旧町名)に移転した浅野侯爵邸のことで、現在は東京大学・浅野地区になっている。

(参考HP)
東京大学・浅野地区の歴史

www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm

・浅野侯爵

「日本の歴史学講座」というホームページの「歴史データ集です。」の「日本華族爵位事典」によると侯爵家の中に浅野家は1家しかなく、明治17年7月7日、芸州藩主であった浅野長勲が叙爵している。

(参考HP)
「日本の歴史学講座」

homepage1.nifty.com/kitabatake/index.html

「歴史データ集です。」
homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi2.html

「日本華族爵位事典」
homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi31.html

・浅野長勲(あさの ながこと)


「生年: 天保13.7.23 (1842.8.28)
没年: 昭和12.2.1 (1937)
安芸広島藩最後の藩主。城下大手町の広島藩士沢家に生まれる。幼名は喜代槌。支藩へ養子に入り為五郎,のちに長興と名乗る。本藩の世子となり,紀伊守に任じられ茂勲と改めた。号は坤山。藩地防御,長州征討のため国許を離れられない養父茂長(長訓)に代わり上京,幕末の政局に関与する。当初,幕府の朝廷遵奉という形の公武合体を目指すが,長州征討などの事件を通じて大政奉還による王政復古を唱えるに至る。慶応3(1867)年4月の四侯会議に合わせ,池田茂政,蜂須賀茂韶と同時上京を図るも成らず,薩摩(鹿児島)藩と関係を密にすることとなる。10月に大政奉還を建白。12月には王政復古政変に加わり議定に任じられる。小御所会議において薩摩藩と土佐(高知)藩の間を調停し,会議の取りまとめに成功した。明治13(1880)年に元老院議官となって以降,イタリア公使,華族局長官,貴族院議員,華族会館長, 十五銀行頭取,日本鉄道理事を務め,侯爵を授けられた。<著作>『浅野長勲自叙伝』<参考文献>『芸藩志』『坤山公八十八年事蹟』(浅野長孝)」。」(コトバンク 朝日新聞社 朝日日本歴史人物事典)

上野図書館を書斎に選んでほとんど毎日そこに通いつめた」

・上野図書館

1906(明治39)年3月に設立された帝国図書館のこと。上野公園にあったことから「上野図書館」の名で親しまれ、洋風の建物や閲覧室の様子は多くの文学作品に登場した。現在の国立国会図書館の前身である。

第125回常設展示 帝国図書館の誕生
rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu125.php


P.15

「私は民訴にまでは手が伸びなかったので、弁護士受験は放棄して高文のみを受け、」

文官試験規則 勅令第百九十七号(明治二十六年十月三十日)によると、第14条において必修科目として、憲法、刑法、民法、行政法、経済法、国際法があり、選択科目として財政学、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法から1科目を選択することになっている。また、筆記試験と口述試験があった。

(参考文献) 佐藤正平 編「文官登用試験規則」(頴才新誌社 明27.2 1894)PP.37-42

したがって、石射猪太郎は選択科目として刑事訴訟法を選択し、民事訴訟法を勉強していなかったと考えられる。

また、必修科目になっている「経済法」であるが、これは「経済学」の誤りであると思われる。実際、石射猪太郎が合格した大正二年度の文官高等試験では、


「〇経済学
(一)賃銀の定め方に関する各種の制度を説明し其の得失を論ずべし
(二)現今本邦に於いて金貨、銀貨及び銀行券は其の職能を異にするや否や」
(出典 清水書店 編「国家試験問題集」(清水書店 大11 1922)P.453 勝手ながら表記をかなに改めました)

また、真田為治編「文官任用試験規則全書」(文官普通試験学科講習会 明36 1903)P.5では文官試験規則 勅令第百九十七号(明治二十六年十月三十日)の第14条において必修科目は「経済学」となっているので「経済法」と書いた方が誤りであると思われる。

一方、弁護士試験は、弁護士試験規則 司法省令第九号(明治二十六年五月十二日)によると、第8条において、筆記試験は民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法があり、口述試験は、このうち少なくとも3科目について行われる。

(参考文献) 佐藤正平 編「文官登用試験規則」(頴才新誌社 明27.2 1894)PP.56-58

合否の判定基準にもよるが、民事訴訟法を勉強していないと、少なくとも筆記試験の突破が難しくなる。


高等官判任官とで、便所が厳然と区別されている一事は、野人である私をいたく驚かせた」


・高等官


「旧制度で、官吏の等級の一。判任官の上に位置する。親任官のほか九等に分け、親任官および一・二等を勅任官、三等以下を奏任官とした。」(Yahoo!辞書 大辞泉)

・判任官

「明治2年(1869)以来の官吏の身分の一。天皇の委任を受けた各大臣・各地方長官など行政官庁の長によって任命された官。高等官(親任官・勅任官・奏任官)の下に位した。昭和21年(1946)廃止。」(Yahoo!辞書 大辞泉)


「高文を通って大学卒業なみの資格を得たが、私の目的は、中国方面に事業を持つ商社への就職にあった」


すでに「東亜同文書院」の項で触れているが、東亜同文書院が専門学校として認可されたのは、1921(大正10)年であり、大学に昇格したのは1939(昭和14)年であるから、石射猪太郎が高文試験に合格した1913(大正2)年には大学はおろか専門学校でさえなかった。

P.16


「試験中の最難関といわれる外交官試験とても突破し得ないことはあるまい」


・外交官試験

外交官及領事官試験のこと。

外交官及領事官試験規則 勅令第二百十三号(明治二十六年十一月二十二日)によると、第一次試験と第二次試験に分かれており、第二次試験は第14条において必修科目として、憲法、行政法、経済学、国際公法、国際私法があり、選択科目として刑法、民法、財政学、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法、外国史から1科目を選択することになっている。また、筆記試験と口述試験があった。

外国語論文は第一次試験として課されていた。

(参考文献) 佐藤正平 編「文官登用試験規則」(頴才新誌社 明27.2 1894)PP.44-47

石射猪太郎の場合、必修科目のうち、憲法、行政法、経済学はすでに勉強しており、選択科目は、刑事訴訟法をすでに勉強しているので、外交官試験ではあらためて、国際公法と国際私法を勉強する必要があった。


「「ジャパン・タイムズ」を買って克明に読み、」

・ジャパン・タイムズ


「日本の代表的な日刊英字新聞。日本の政治的立場や実情を海外に伝えることを目的として明治30年(1897)山田季治らが創刊。昭和18年(1943)「ニッポンタイムズ」と改称したが、同31年に原紙名に復帰。」(Yahoo!辞書 大辞泉)


「同時にその頃専門校受験用として学生間に流行していた南日恒太郎著「和文英訳」という小冊子を」


・専門校

旧制専門学校のことと思われる。


「旧制の専門学校令に基づいて設立され、中等学校卒業者に専門的な学術・技芸を教授した学校。」(Yahoo!辞書 大辞泉)

・南日恒太郎(なんにち つねたろう)

「1871-1928明治-昭和時代前期の英語学者。
明治4年9月30日生まれ。田部隆次・重治の兄。独学で教員検定試験に合格,東京の正則中学教師や学習院教授をつとめる。大正12年富山高等学校初代校長。受験参考書「英文解釈法」などの著者として知られる。昭和3年7月20 日,生徒と遊泳中に水死。58歳。富山県出身。著作に「英文藻塩草」「英詩藻塩草」など。」(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

・「和文英訳」

国立国会図書館 近代デジタルライブラリー(kindai.ndl.go.jp/)で検索してみると、南日恒太郎の著作に「和文英訳」という本はない。しかし、類似の著作が三作発見できた。

1.「和文英訳法 分類詳解」(有朋堂 明37.5 1904)
2.「和文英訳法」(有朋堂 明40.2 1907)
3.「和文英訳法」(有朋堂 大3.10 1914)

石射猪太郎は、1913(大正2)年の高等文官試験を受験し、翌年の1914(大正3)年に1度目の外交官試験を受験しているので、3.は考えられない。「その頃専門校受験用として学生間に流行していた」とあるのでおそらく2.と思われる。

内容や南日恒太郎については、和歌山大学教育学部 江利川春雄教授(英語教育)のブログ「和歌山大学江利川研究室のブログ」に詳しい。

(参考HP)
「和歌山大学江利川研究室のブログ」
blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man

英作文参考書の歴史(1)南日恒太郎(その1)
blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/9234612.html

英作文参考書の歴史(2)南日恒太郎(その2)
blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/9279516.html


「殊に国際公法、私法で立博士山田(三良)博士から問い詰められ、さんざんの不首尾であった」


・立博士

立作太郎(たち さくたろう)と思われる。


「1874-1943明治-昭和時代前期の国際法学者。
明治7年3月15日生まれ。立嘉度(よしのり)の子。明治33年ヨーロッパに留学。帰国後東京帝大教授となり,外交史,国際法を担当。外務省の嘱託もつとめ,パリ講和会議,ワシントン会議などの国際会議に参加。昭和18年5月13日死去。 70歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「平時国際法論」「戦時国際法論」など。」(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

・山田(三良)博士

山田三良(やまだ さぶろう)


「1869-1965明治-昭和時代の法学者。
明治2年11月18日生まれ。欧米に留学し,国籍法,外人法など国際私法学を研究,その発展につくす。東京帝大教授,京城帝大総長,学士院長,日仏会館理事長などをつとめた。昭和29年文化功労者。昭和40年12月17日死去。 96歳。大和(奈良県)出身。帝国大学卒。著作に「国際私法」など。」(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)


 

外務省に奉職

P.20

「新官補一同、登庁の第一日に、芳沢人事課長に率いられて、石井大臣幣原次官にお目見えした」


・芳沢人事課長

芳澤謙吉(よしざわ けんきち)と思われる。

その根拠を以下に示す。
国立公文書館デジタルアーカイブで検索したところ、枢密院文書・高等官転免履歴書として、芳澤謙吉の履歴書があり、

「同三 六、二六 任外務書記官
叙高等官三等
賜一級俸
大臣官房人事課長ヲ命ス」([請求番号] 本館-2A-016-03・枢00181100 [件名番号] 038 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和11年 [マイクロフィルム] 017000 [開始コマ] 0579)※画像閲覧可能なデータ

とあり、1914(大正3)年6月26日に人事課長になっている。

また、

「同五 九、二五 任大使館参事官
叙高等官二等
支那在勤被仰付
賜三級俸
一〇、五 東京出発」([請求番号] 本館-2A-016-03・枢00181100 [件名番号] 038 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和11年 [マイクロフィルム] 017000 [開始コマ] 0579)※画像閲覧可能なデータ

とあるので、ここまでの間、芳澤謙吉が人事課長であったと推測できる。ただし、問題がある。

実は、上に参照した履歴書では、大正4年4月14日に大礼使事務官になっている。これが、出向なのか兼務なのかよくわからなかった。しかし、本書P.25に大正5年1月の時点で芳沢人事課長が登場している。なにも、断り書きもないので、同一人物と思われる。

また、大礼使とは、大礼使官制(大正四年四月十二日官報号外)の第一条に「大礼使は内閣総理大臣の管理に属し即位の礼及び大嘗祭に関する事務を掌る」(参考文献 京都通信社 編「御大礼要覧」(京華
社 大4 1915)P.98)とあった。


・石井大臣

石井菊次郎(いしい きくじろう)

石射猪太郎は大正4年11月11日付けで高等官七等領事官補に任ぜられている(本書P.19)ので、登庁第一日も日付は明確ではないがこの近辺と考えられる。

本書P.22によるとこの年の12月のある日曜日には他の局課に配属された同期合格者たちと鎌倉江ノ島に遊びに行っている。最後の日曜日は12月26日(参考 あの日は何曜日?万年カレンダー
(www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/index.htm))だから、これより前であることは確実である。

外務省HPの歴代外務大臣一覧(www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/gaisho/reference.html)によると、大正4年10月13日から石井菊次郎が外務大臣になっている。彼の前後の外務大臣は、大隈
重信、寺内正毅(就任は大正5年10月9日)であるので断定できる。



 「1866-1945明治-昭和時代前期の外交官。慶応2年3月10日生まれ。石井邦猷(くにみち)の養子。明治41年外務次官。駐仏大使をへて,大正4年外相。翌年貴族院議員。6年特派大使として渡米し,石井-ランシング協定をむすぶ。駐米大使,国際連盟日本代表をつとめ,昭和4年枢密顧問官。子爵。昭和20年5月25-26日の東京空襲で行方不明となった。80歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。帝国大学卒。旧姓は大和久(おおわく)。」(講談社書籍版 日本人名大辞典)


 
・幣原次官

幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)


国立公文書館デジタルアーカイブで検索したところ、「外務次官幣原喜重郎外国勲章受領及佩用ノ件([請求番号] 本館-2A-018-00・勲00484100 [件名番号] 023 [作成部局] 内閣 [年月日] 大正4年11月12日)との文書がある。



「生年: 明治5.8.11 (1872.9.13)
没年: 昭和26.3.10 (1951)
大正昭和期の外交官,政治家。堺県茨田郡真門村(大阪府門真市)に幣原新治郎の次男として生まれる。長兄坦は台北帝国大学総長,枢密顧問官。明治28(1895)年帝大法科大学卒業。翌29年外務省入省。以後累進し,大正4(1915)年第2次大隈内閣で外務次官となる。そこでシベリア出兵,パリ講和会議等第1次大戦時の諸問題に従事した。8年駐米大使,10年末のワシントン会議では全権委員として海軍軍縮および中国・太平洋における現状維持をめぐって列強との協調を図った。13年6月から昭和 2(1927)年4月までの第1次外相期(護憲3派内閣から若槻内閣まで)および,4年7月から6年12月までの第2次外相期(浜口内閣から第2次若槻内閣まで)に,中国市場の確保を前提に英米から協調を調達するいわゆる「幣原外交」を展開,ロンドン海軍軍縮条約,日中関税協定などを締結した。しかし,対中国直接交渉が不調ななか,関東軍によって満州事変が起こされ若槻内閣の総辞職とともに退陣した。敗戦後は政治家として昭和20(1945)年10月に首相。また,同24年には衆院議長に就任。<著作>『外交五十年』<参考文献>幣原平和財団編『幣原喜重郎』
(小池聖一) 」(朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版)


「見るからに気高い容貌、フロックコートを常用して水際立った長身、識見また高く咳唾玉を成さんばかりに思われた。」


咳唾玉を成さん(咳唾(がいだ)珠(たま)を成す)


「《趙壱「刺世疾邪賦」から》かりそめに出た言葉も、珠玉のように美し いものである。詩文の才が非常にすぐれていることのたとえ。」(コトバンク デジタル大辞泉)







P.23
 
「私は、依然、向ヶ岡弥生町の借家から役所へ通った。岡の上には田中館愛橘博士や、某子爵の邸宅などがあったが、私の借家は崖下の陋巷にあって」

 
・田中館愛橘(たなかだて あいきつ)

「1856-1952明治-昭和時代前期の物理学者。
安政3年9月18日生まれ。イギリス,ドイツ留学後,明治24年帝国大学教授。日本各地で重力・地磁気を測定し,32年岩手県水沢に緯度観測所を設立。航空分野での開拓的研究,メートル法や日本式ローマ字つづりの普及にもつくした。貴族院議員。昭和19年文化勲章。昭和27年5月21日死去。95歳。陸奥(むつ)二戸郡(岩手県)出身。東京大学卒。」
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

参考HP
田中舘愛橘記念科学館(二戸市シビックセンター)
www.civic.ninohe.iwate.jp/aikitu.html




・某子爵の邸宅

森惣之祐 編「最新華族名鑑 明治41年12月調」(東華堂 明治42.1 1909)によると、当時(おそらく大正4年)、本郷区向ヶ岡弥生町にすんでいた子爵は、戸田忠行(P.79 57コマ目)、大河内正倫(P.94 65コマ目)の2名であり、いずれも、向ヶ岡弥生町三となっていた。これ以上の絞り込みはできなかった。

2名の子爵の名前のあとのかっこの中のコマ数は
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー(kindai.ndl.go.jp/)によるもの。

また、これより新しい(例えば大正時代の)華族名鑑の類を発見できなかったため、この2名の子爵以外の可能性もある。この2人の子爵の経歴も調べたが、なぜわざわざ某子爵としたのかわからなかった。


陋巷(ろうこう)

「狭くむさくるしい町。」(コトバンク デジタル大辞泉)

 

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