「 大分県の08年度教員採用試験で得点改ざんにより合格したとされる20人に8日、採用取り消しや退職の辞令が交付された。臨時講師にならずに学校を去る担任は7人。この日、5カ月余りをともに過ごした児童に別れを告げた。「先生、戻ってきて」。一度は教壇を離れる決意をしながら、子どもたちの手紙に励まされ、担任を続けることにした教員もいる。
「先生は悪いことはしていません。もう一度、教員採用試験を受け直すため、勉強したいと言っています」
男性教諭が自主退職し、教壇から去ることになった県南部の小学校。この日、男性が担任していたクラスで校長が事情を説明し、男性が書いた手紙を配った。「みんなの前で発表、よくできたね」「放課後に残って机を並べてくれてありがとう」。児童一人ひとりにあてて、思い出がつづられていた。
クラス全体への手紙は校長が読み上げた。「新しい担任の先生と頑張ってほしい。先生も真剣に勉強して、みんなが卒業するまでに学校に戻るからね」。聞きながら、涙を浮かべる児童もいたという。
新しい担任は「仲良くなりましょう」と呼びかけ、黒板に絵を描きながら自己紹介した。打ち解けた雰囲気に、校長は胸をなで下ろした。
県中部の小学校では8日、始業式のあった1日から休んでいた男性教員が出勤した。
「先生!」。姿を見ると、教室にいた約30人の児童が廊下まで駆け寄った。児童と会うのは夏休み中の登校日以来、約1カ月ぶり。教員の表情にも笑顔が戻った。
自分や親に不正の心当たりはない。どんな経緯で得点が改ざんされたのか、まったく解明されないままだ。自分の採用を取り消しながら、県教委の内部の処分は甘いと思い、わだかまりが消えない。
「もう、こんな県教委のもとで教えられない」。男性は自主退職はせず、臨時講師としても学校に残らないことをいったんは決意した。
「話を聞いてくれる先生が大好き。やめないで」「会えなくなって、悲しくて涙が出てきました」「もっともっといっしょに勉強したり遊んだりしてほしい」
5日夜、担任するクラスの児童から手紙が家に届いた。保護者も「先生には3月まで続けてほしい」と書いていた。「担任としての責任を最後まで果たすべきか」。一晩悩み、臨時講師として担任を続けることを校長に伝えた。
来年4月以降、教員を続けるかどうかはまだ迷っている。大分県の教員採用試験を受け直すつもりはない。
それでも、子どもたちと再会した喜びは格別だった。「来年3月まで、思い出をいっぱいつくりたい」(熊田志保、黒川真里会) 」(09月09日 朝日新聞)
朝日新聞が好きそうなお涙頂戴のくだらないストーリーだが、「教育」の重要性を考えると本当に暗澹たる気分になってしまう。
気になるのは、以下の部分だ。
「自分や親に不正の心当たりはない。どんな経緯で得点が改ざんされたのか、まったく解明されないままだ。自分の採用を取り消しながら、県教委の内部の処分は甘いと思い、わだかまりが消えない」
これを読むと、自分や親に不正はないと思いたいようだが、では、教育委員会がなんの根拠もなく一方的に合格させたというのだろうか。
通常では合格できないような、「できそこない」を県教育委員会は合格させているのである。 そうすると、不正合格者に大幅に加算した分、平均点が上がってしまうため、全体的に他の受験者の点数を減らさないといけなかったのだ。
合格させようという動機がなにも働かない受験者に対しては減点方向のバイアスがかかっているのである。誰からも頼まれていない人間に加点したらその分の調整まで必要になってくる。そんなことをするのだろうか。
この不正合格教員の親か大学の指導教授か誰かが頼んだかわからないが、わざわざ本人である不正合格教員に、不正をしたと告白するだろうか。不正の心当たりがないというのは、単なる願望にすぎない。思いこみにすぎない。
誰が、不正合格を頼んだのかは、教育委員会よりも本人の方が調べることができる。何もせずに、「心当たりがない」というのは、とにかく一方的に教育委員会を悪いと言いたいのだろう。
彼の採用が取り消されたのは、本当は合格していなかったからであり、懲罰ではない。それを、県教育委員会のメンバーに対する懲罰と比べるのはおかしな話だ。
元々合格できない人間が、合格を取り消され正常に戻っただけである。教育委員会の懲罰が充分だと言っているのではない。そもそもが比べるものではないと言っているのである。
「もう、こんな県教委のもとで教えられない」というが、はじめからその能力も資格もないのである。これでは、教員採用試験に合格できる人間であるはずがない。完全に勘違いしている。
自分に教育できる能力がないにもかかわらず、「5日夜、担任するクラスの児童から手紙が家に届いた。保護者も「先生には3月まで続けてほしい」と書いていた。「担任としての責任を最後まで果たすべきか」。一晩悩み、臨時講師として担任を続けることを校長に伝えた。 」これでは、丸一年間多くの子供たちに低レベルな教育をして社会に害悪をまき散らしてしまう。
保護者も教育者もどうして子供が懐いているかどうかといった子供の情緒の面だけに目を奪われるのだろうか?幼稚園と同じでいいと思っているのだろうか?これでは教員には仕事をしているとかプロ意識など生まれているはずがない。結局、みんなが変わらない限り、朝日新聞と同じレベルでいつづけるのだろう。
「 静大によると、試験の準備段階で専攻科長や問題作成者が確認を誤り、解答を人数分コピーしたのが原因。試験終了後、学長をトップとする緊急対策委員会で協議し、全員を一律満点としても順位は変わらないと判断した。
山本義彦副学長は「専攻科長らの処分を検討し、再発防止を徹底する」と陳謝した」(9月6日 中日新聞)
「10.ミスへの対応
(1)受験者からの指摘後、直ちに全員の試験問題用紙を回収した。
(2)代替試験問題(同時刻に実施の他専攻のもの:90分用)について、出題担当者による事前点検を行い、内容が適切と判断し使用することを決めた。
(3)試験問題を準備し、試験時間を36分遅らせて再開、試験時間60分間とした。
(4)受験者に不利にならない対応が必要なことを勘案し、従来の合否ラインと同等の合格レベルを維持し、その上で受験者全員の英語の得点を満点(100点)とした。」(下線部は原文どおり)
「11.今後の対応
(1)入試ミスの再発防止に全力を尽くす。
(2)工学研究科として、教育研究の一層の充実を図る」とある。
「 別の小学校では1日、採用取り消し対象の女性教員が朝一番に出勤。処分を伝えた校長に頭を下げあいさつした。「2学期からも頑張ります。よろしくお願いします」
校長は「やる気も資質もある彼女を育てたい。ただ、これから周囲の環境が激変するだろう。いったいどうすればいいのか…」と唇をかんだ」(9月2日 西日本新聞)
「「私は悪いことをしていない。採用を取り消すなら、すればいい」‐大分県の教員採用汚職事件を受け、県教委から不正合格とされた教員20人のうち12人が退職願を出した3日、同県中部の小学校の男性教員(20代)は西日本新聞の取材に憤りを隠さなかった。この教員は退職願を出していない8人のうちの1人。「今は人間が信じられない」とも語った」(9月4日 西日本新聞)
「5日の期限になれば、採用取り消し処分になるが、臨時講師の道も残されている。だが、男性教員は「腐りきった大分県の教育界が変わるまで、もうかかわりたくない。取り消しするなら、すればいい。臨時講師にもならない」と話した。
それでも、担任として受け持つ児童たちのことを思うと胸が痛む。「いくら私に能力がないと言われても、せめて1年間だけは勤め上げたかった」との本音も」(9月4日 西日本新聞)
「一連の事件を受けて、不正の実態を調べた県教委のプロジェクトチームの調査報告書に、口利きを依頼した者についての詳細な記述はない。このため、県内自治体の教育担当者は「もし親が口利き依頼をしていても、決して子には伝えないだろう。子は親を一生疑うことになる。今回の県教委の対応は、親子のきずなにまで傷を付けたのではないか」と批判した」(9月4日 西日本新聞)
「江藤被告らのパソコン内にあった点数改ざんのデータを示しても、涙を浮かべて「なぜ自分が不正の対象になったのか」と詰め寄られた。「いろいろ調べたが、誰が働き掛けたのかは分からなかった」としか答えられず、県教委幹部も「これで納得してもらうのは難しい」と認める。
4月採用の教員が勤務する県北部の小学校長は「学校に取り消し対象者がいるかどうかは明かせない」とした上で「末端の現場に一番しわ寄せがくるということに憤りを感じる」と話す。」(9月4日 スポニチ)
「臨時講師として勤務し続けることにした教諭が在籍する県中部の小学校は3日夜、教諭の担任学級がある学年の保護者に説明会を開き、校長が「一生懸命やっているので、担任として受け入れてほしい」と呼びかけた。教諭が「子どもたち一人ひとりを大切にしていきたい。これからもよろしくお願いします」と涙を流しながら語ると、保護者から拍手が起こったという」(9月3日 朝日新聞)
「「納得できない。人生が狂うことになる」。県教委から採用取り消しの通知を受けた教諭からは、反発の声が相次いだ。「事実を受け入れることができず、中には涙を流したりする人もいた」(県教委の担当者)という」(9月2日 毎日新聞)
・国際エネルギー機関(IEA)田中伸男事務局長の発言「日銀の白川方明総裁は2日、名古屋市で講演し、原油価格の上昇は一時的ではないと指摘し「新しい価格体系に適合するよう企業の生産構造を転換し、競争力の強い分野を創出していくことがより一層重要になる」と語った」「足元の原油高は「新興国の高成長という世界経済の構造変化が強く影響している」と分析、供給制約が大きかった過去の石油ショックと性質がやや異なるとの認識を示した。そのうえで「世界経済のスピード調整を経なければ、資源価格の安定も含めた次の発展への条件が整わない」と指摘した。
講演後の質疑ではトヨタ自動車の張富士夫会長が資源価格の高騰について「新価格体系に移行する過程か」と質問。白川総裁は「長い目で見ると新しい価格体系に調整が進む」と答えた。」(9月2日 日本経済新聞)
国際エネルギー機関(IEA)は、第1次石油危機後の1974年に、キッシンジャー米国務長官(当時)の提唱を受けて、OECDの枠内における機関として設立された。事務局所在地はパリ。事務局長は、田中伸男OECD科学技術産業局長が2007年9月1日に就任)。その目的および活動は加盟国において石油を中心としたエネルギーの安全保障を確立するとともに、中長期的に安定的なエネルギー需給構造を確立することを目的として、石油供給途絶等緊急時の対応策の整備や、石油市場情報の収集・分析、石油輸入依存低減のための省エネルギー、代替エネルギーの開発・利用促進、非加盟国との協力等について取り組んでいる。「[ベルリン 9日 ロイター] 国際エネルギー機関(IEA)の田中伸男事務局長は、世界的な原油市場の緊張は、当面は緩和するものの、その後再び高まるとの見通しを示した。9日付の独シュピーゲル誌に語った。
同局長は「今後1─2年に市場は落ち着きを取り戻すが、その後再び、状況はより緊迫するだろう」と述べた。
原油価格は、世界的な経済減速が需要期待を圧迫しているとの懸念から、8日の取引で1バレルあたり5ドル下落、3カ月ぶりの安値を記録した。
米原油先物は7月11日に1バレル=147ドル超の過去最高値を付けて以来、下落している。北海ブレンド先物も、1バレルあたり4.53ドル下げて、113.33ドルで8日の取引を終えた。
同誌によると、田中局長は、将来における危機を回避するため、産油国は「課題に取り組むべき」で、生産能力を著しく拡大する必要があると指摘する一方、生産能力を目に見えるほど拡大できるのは石油輸出国機構(OPEC)加盟国だけだ、との見解を明らかにした。
また、米国での燃料需要が低下している中、サウジアラビアでは産油量を日量250万バレル拡大しようとしており、「そのような傾向が原油価格に反映されている」と指摘。「10年前の1バレル=20ドルのような時代は、絶対に再びやって来ない。現在は、高いエネルギー価格の時代であり、昔に戻ることはありえない」と述べた」(8月11日 ロイター通信)
この間、圧倒的に多数のメディアが原油価格の上昇を投機マネーのせいにしていた。そればかりか、経済産業省の北畑隆生 事務次官(当時)までもが投機マネーをやり玉に挙げていた。
しかし、ようやく最近になって識者や日本政府に関係した組織でも原油高騰を投機マネーのせいにせずにもっと深刻な石油の需要の急増とさらなる急増の見込みや、石油資源の枯渇の恐れが原因であると考える人々が出てきはじめた。
私もそう思っている一人なので、ここでは投機マネーは原油価格高騰の原因ではないと主張することにする。当然ながら、私も消費者の一人であり、物価が高騰することはうれしくない。投機マネーをやり玉にすれば、ストレスは少しは発散されるであろうとは思う。だが、我々が投機マネーを叩いて感情的になっている間にも、日本はどんどん苦しい立場へと落ちていく危険性がある。(もちろん、本当に投機マネーが原因ならばいくら叩いてもいいと思う。)
人間は感情的な生き物ではあるから、感情的になるなというのは無茶な話だが、しかし、判断だけは感情的になってはいけないと思う。感情的な判断は圧倒的に間違っている場合が多く、現実を認めないという態度をとっているうちにどんどん事態が悪くなるからだ。
かつて、バブルが崩壊して住専(住宅専門金融会社)に公的資金を供給するかどうかの問題で多くの人々が銀行を悪者にして猛反対した。国民が一方的な貸し手責任を主張している間に事態がどんどん悪くなり(銀行がひどいことをしてきたのは事実であろうがお金を返さない人がいちばん悪いのにそれは一切無視された)、その災厄は当然のように国民全体に蔓延していったのである。感情的な判断で行ったことが結局、自分たち自身を苦しめ続けたのである。
しかし、最近の日本国民は、全体としては(私も含めて)相当理性的であるとは思う。たとえば、日本の規模と比べると小さくなるが、大阪府のように橋下徹知事が大幅な歳出削減に舵を切っても(直ちに府民への行政サービスの減少を意味し、府民に痛みを伴うことが明らかにもかかわらず)、橋下知事を圧倒的多数の方が支持し続けているのである。
今は、あまりの原油の急騰にみんな驚いているのだろうが、いずれは冷静にはなると思う。しかし、それに要する時間がかかればかかるほど、日本は苦しい状況になると思う。
今、主張されている説は、すべて本当に「頭のいい国ニッポン」なのか?と思うような感情的なものばかりである。
(1)「ゴールドマン・サックスが予想したから原油があがった」のウソ
こういう短絡的なことを言う人の代表格はもちろん、北畑隆生 経産事務次官(当時)である。しかし、これには暗黙の前提がある。ゴールドマン・サックスが何かの予想をしたら、周りのみんながそれを信じてゴールドマン・サックスの予想に沿うように行動するという構図ができあがっていなくてはならない。
ところが、今までゴールドマン・サックスの予想のせいで大きな影響が出た、という話は全然あがってきていない。たしかに石油が1バレルいくらになる、という予想を出して当てたことはある。しかし、上に書いた構図ができあがっているのならば、ゴールドマン・サックスはどんどんいろいろな商品の値段を予想してブチあげていれば、もっともっとボロ儲けしていたはずである。なぜ、彼らはそうしなかったのだろうか?この説は、要するにそういうことをしてこなかったゴールドマン・サックスは馬鹿だと言っているのである。
確かに、実際に投資銀行や、証券会社の格付けを発表する。しかし、そのレイティングは種々さまざまである。ゴールドマン・サックスは、たしかに「世界最強の投資銀行」と言われているようだが、他にも、モルガン・スタンレーやメリルリンチがあり、ゴールドマン・サックスだけがすごいのではない。アメリカだけでなく、ヨーロッパにも有力なところは複数ある。今までも証券会社が予想を外すこともたくさんあった。昔のブッラクマンデー(1987年10月19日の株価暴落)のせいでメリルリンチの支店長は銃殺までされているのである。なぜ、突然、彼らが原油価格の上昇をあおったことが原因と言われねばならないのだろうか?みんなが信じなくてはならない筋合いなど全くないのである。
(2)「サブプライムローン破綻で投機マネーが石油を買った」のウソ
よくいわれるのが、これだ。サブプライムローンの破綻で株式市場が暴落したから、投機マネーが原油に向かったというものだ。自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。サブプライムの破綻とはバブル崩壊だ、はっきり言って。アメリカの景気は悪くなっていくのである。だから、株式市場も下落した。これから不景気になるとは、需要が減るということだ。なぜ投機マネーが原油の買い占めをおこなうのだろう。
これは素人的発想だ。プロは、買いから入るばかりではない。売りから入ることもあるのである。マスコミは、サブプライムローン問題をアメリカの不動産バブル崩壊だと言っておきながら、原油の上昇はなぜか投機マネーのせいにしたのである。景気が悪くなるのになぜ、原油の上昇を見込むのか?景気が悪くなればみんなが石油を消費したくなると言っているのである。
投機マネーは上がろうが下がろうが変化があればそれでいいのだ。サブプライムローン問題が起きたら、株式市場から逃避するのではなく、積極的に株式市場で売りに回ればいいのである。実際、ニューヨークのダウは、2007年7月末で13210ドル、2008年7月末で113700ドルをつけている。この間の最高値は、2007年の10月11日の142700ドルである。最高値から20.3パーセントも下落しているのである。これを利用しない手はなかったろう。
この間の原油上昇の理由は、ドル安である。原油はドル建て表示のWTIの値段が変化しなかったら、ドル建て分、当然減価してしまうことになる。だからあがったのである。さらに、アメリカ以外の国々では外貨準備のドルの比率を下げるという報道が複数なされた。これは将来的なドル安要因だ。投機筋が存在していなくったって、みんなさらにドルが安くならないうちにパニックになって原油の先物を買っておくだろう。
原油が、急落したのも、EUの景気後退懸念でドル安からドル高に転換したからである。ドル円だって、100円どころか,90円もあり得ると思われていたのだ。それに歯止めがかかり、110円も視野に入っている。
アメリカ大統領選挙の民主党候補オバマ氏が、原油の価格対策としてドル高政策を提唱していたのもこのためである。
また、投機筋の原油ポジションは、2007年中頃に10万枚超の買い越しになってはいるが、その後も増減を繰り返し、現在は売り越しになっていると思われる。(米商品先物取引委員会(CFTC)のデータより)
(3)「投機マネーが買い占めている」のウソ
一番ひどいのがこれだ。日本人的発想である。日本人は昔から、「士農工商」といって商売を馬鹿にしてきた。いい物を作れば(自動的に)売れる、いいサービスを提供すれば(自動的に)売れると未だに思いこんでいる人たちがいる。
しかし、利益を得るとはそんなに簡単ではない。利益は現金を回収しない限りあくまでも評価益にすぎないのだ。実需筋は、原油を買っても消費してしまうから、継続的に買い圧力となるのは確かだが、投機マネーは、原油を消費しない。いつか売り切らないといけないのである。彼らが買えば買うほど、将来の売り圧力が強くなるのだ。これを単純に市場でさばこうとしても簡単にはいかない。評価益を現実化することなんかできっこないのである。
もし、投機マネーが買い占めているのならば、原油の在庫はどんどん積み上がっているはずだ。決定的な証拠を出そう。たしかに、2004年からの在庫は、増加と減少を繰り返しながらも概ね上がっていた。ところが、2007年の7月に約350万バレルを記録した後、減少傾向に転じ、2008年7月でだいたい290万バレルに減少しているのである。これは、過去5年で一番低かった2004年7月(同月比)の水準も下回っている。みんなが、原油の上昇を投機マネーのせいにするのが正しいなら、この間、原油在庫は積み上がっていたはずだ。しかし、この間に原油の在庫は実際に減少しているのである。
このデータ自体の出所は米国エネルギー情報局(EIA)だが、私は、以上のデータを三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部様の8月18日付けの原油レポートNo.133で知った。HPで公開されているから誰でも入手可能だ。ナンバーがふってあるからわかると思うが、この会社は以前から原油価格のウォッチをしているのである。
したがって、(2)のCFTCの統計にはループホールがあると言われているが、仮に、投機マネーが買い越していても、原油の上昇を投機マネーにするのは確実にウソである。
そもそも、90年代はじめに湾岸戦争が終結した後、2000年くらいまで、原油はずっと安かった。しかも、90年代は、イラクが経済制裁のあおりを受けて、人道的要求に見合うだけの原油しか輸出できなかったのにだ。1バレル20ドルを下回るような時代がずっと続いて、産油国もオイルメジャーも青息吐息だった。オイルメジャーも恐ろしいほどのリストラを敢行したのだ。
よく言われるように、原油に占めるWTIは割合がとても小さいから、原油価格をつり上げることは簡単にできると脳天気なことを言う人がいるが、もしそんなに簡単にできるのならば、なぜ、巨大企業であるオイルメジャーは結束してWTIを買い支えしなかったのだろうか?なぜ、アラブの産油国の人たちは、WTIを買い支えして、自分たちの原油の値段をつり上げて売らなかったのだろう?投機マネーにはヨーロッパの金融機関経由でオイルマネーが大量になだれ込んでいると考えられている。おかしいと思わないのだろうか。
原油に占めるWTIは割合がとても小さいから、原油価格をつり上げることは簡単にできると考える人たちが言うように、そんなに簡単なら、メジャー各社やアラブの方々はそんな簡単なことも思いつかないし、やらないのだから馬鹿だと見下しているのだ。
それと、もうひとつ書いておきたいのは、商品相場にはずっと昔から投機マネーがたくさん存在しているのということだ。
ずっと昔の本で、オイルメジャーを遥に上回る力を持つと言われる穀物メジャーについて書いた石川博友「穀物メジャー」(岩波書店、1981年)がある。この人は、「週刊ダイヤモンド」誌主幹を経て、神奈川大学教授(1981年当時)だった方だ。
この本によると、
「アメリカ商品先物取引委員会(CFTC)の調査によると、先物商品取引高は、一九七○年の一四五○億ドルから、一九八○年には五兆ドル近くに増大したとみられている。もちろん、この取引高は現物の引渡しを反映するものではない。シカゴ取引所で実際に引き渡しが行われるのは、先物契約の二%以下である」(143ページ)
「穀物市場で買い占めを行うのは、「空の星を買い占めるくらい難しい」といわれており、商品取引所での先物投機では大型投機集団が出現したといっても、完全に市場を支配したという事例は、それほど多くはない。穀物メジャーといえども、国際穀物相場を思うように左右することは不可能である。」(160ページ)
だいたい、現在では投機集団ではないが、ファンドがそれこそ星の数ほどたくさんあり、さまざまな思惑で動いている。(当然、買いからはいるファンドばかりではない。)強力な力を持つ穀物メジャーのいる穀物相場でさえ、上述の通りだ。
上に書いたように原油のいかに上昇が激しくても、原油は確実に消費されているのである。これはやはり、需要増(とそのさらなる増大の見込み)が原因であると言わざるを得ない。だいたい、中国や、BRICs諸国の経済での躍進を考えればわかるのではないだろうか?インドのタタ自動車に至っては、世界に衝撃を与えるような超低価格の自動車を市場に投入するのだ。
私のような海の物とも山の物ともわからない人間が何を言っても、信じられないのが人情というものだ。情報源を明示して統計に基づいて書いてもそれはかわらないだろう。そこで、次からは識者や政府関係者のコメントから検討したい。
「ただ現場の混乱を最小限にとどめるため、希望があれば臨時講師として雇用する。本来は合格ラインに達していながら不正によって不合格となった21人については、本人が希望すれば10月以降採用する」(8月30日 読売新聞)
「県教委の29日の記者会見では、取り消しが08年度分に限られたことに質問が相次いだ。07年度以前の「不正合格者」は見逃されることを指摘されると、小矢文則教育長は「根拠づけるデータがない。どうしようもない」と語気を強めた」(8月30日 朝日新聞)
教育委員の一人は慎重論を唱えてきた。「実際の得点がわからなければ、絶対に不正があったという保証がない。人の人生を軽々しく狂わせるわけにはいかない」 (8月30日 朝日新聞)
「大分県の教員採用汚職事件を受け、不正合格が確認できた教員21人の採用取り消しを決めた県教委の幹部が、今回の対応をめぐり県教組幹部と「事前交渉」をしていたことが30日、分かった。教組側は「事件は県教委側に責任があり、教員の不利益にならないよう配慮してほしい」と求め、県教委側も理解を示したという。県教委は「現場を混乱させないため」との理由で21人を臨時講師として雇用継続を認める方針だが、教組への配慮もうかがえる。
関係者によると、小矢文則・教育長ら県教委幹部3人は、県教組側の要望を受け今月8日夜、別府市の宿泊施設で会合を開いた。教組側は森政文委員長以下の幹部約20人が出席した。
教組側は「不利益にならないような配慮」などを要望。小矢教育長は「採用取り消し後のケアは考えている。(採用取り消しは)ケアなしではやらない」などと応じたという。」(8月30日 西日本新聞)
「県教組の森委員長は、県教委との会合について「組合員の権利を守るため当然のことをした」と話している。」(8月30日 西日本新聞)
「ある小学校長は「大切なのは子どもに混乱を与えないこと。採用取り消し者が出ても、今まで通りの学校経営を続けることが必要だ」と語った」(8月30日 西日本新聞)
「大分市内の小学生の父親は、教員のこれまでの実績や子供への影響を考えて、取り消しを年度末まで待つなど配慮してほしいという。」(8月30日 産経新聞)
「今春採用の3人が勤める佐伯市の小学校に孫が通う女性(61)は「(来週から)2学期も始まるのに、該当者がいたら子どもにどう説明するのかしら」と戸惑う。」(8月30日 朝日新聞)
この保護者たちは、何を考えているのか?一番の被害者が子供たちであることは間違いない。不正合格を取り消された教員たちではない。そこは間違えてはいない。「一方、贈賄罪で起訴された元小学校長、浅利幾美被告(52)の長男は不正に合格したとされ20日、今春から勤務していた大分市内の小学校に辞職願を提出し、取り消しを待たずに学校を去った。後任の臨時講師が既に決まっているが、保護者からは「担任が突然いなくなり、一番の被害者は子供たちだ」などの声が相次いだという。」(8月31日 毎日新聞 西部朝刊)
女性記者が、夕張市の市役所や市民など隅々まで取材して書いたなかなかの本だとその時は思った。が、どうもよくわからないところがあった。それは、国のエネルギー政策と夕張市の財政破綻についての記述だ。
「炭坑のピークは1960年。現在の10倍の11万6908人の人口を抱えるなど発展したが、安い海外炭との競争、さらに国のエネルギー政策の転換で、戦後復興を支えてきた炭坑は、60年代以降バタバタと閉山していく」(129ページ)
国のエネルギー政策とはいったい何だったのだろうか?これが、この本を読んでも全くわからないのである。おそらく相当な年齢の人でもないと知らないだろう。(あるいは、このあたりのことを研究している人はわかっているのかもしれない)
実は、このあたりのことがわからず、インターネットで調べたがわからない。私が、調べた限りでは、夕張市の財政破綻についてブログで書いている人もあっさり、「国のエネルギー政策の転換のせいで」夕張は破綻した。とあるだけだ。
やっと、「国のエネルギー政策」について書いてある本を見つけたので、紹介しておきたい。その本は、堺屋太一「組織の盛衰」(PHP文庫)である。
堺屋太一さんといえば、「峠の群像」(1982年NHK大河ドラマ)「豊臣秀長」「巨いなる企て」などで有名な作家であり、小渕内閣では経済企画庁長官(1998年)にもなった、誰でも知っている人物だが、じつは、もともとは通産官僚であり、「サンシャイン計画」にも携わったエネルギー問題の専門家でもある。
彼の著書から、引用させていただく。
「政府は、社会党などの要求した「炭坑国家管理」による国営化こそ拒否したが、巨額の補助金と財政融資を行った。一九五五年には「石炭鉱業合理化法」を制定、合理化、オートメーション化に多額の資金が注入された。一九六三年にから八二年までの二十年間に、石炭産業に投入された国費(税金)は、一兆七千六百四十二億円、財政投融資は四千六百四十億円に上る。今日の貨幣感覚にすれば五兆円、国家予算との比率で見れば七、八兆円にもなるだろう」(75ページ)
夕張市(だけではないが)を保護するために、これほどの負担を行ったのだ。もちろん、負担したのは国だが、最終的には日本国民全員である。夕張市民は、あるいは、その支援者たちは、国のエネルギー政策の転換を批判するが、このような巨額の負担を未来永劫、日本国民に負担させろといっているのである。
どうして、夕張市民のためにそこまでしなくてはならないのか?日本国民は、夕張市民の奴隷なのか?「夕張市」を維持するためにそこまでしていたのだ。しかも、負担していたのはこれだけではない。まだまだあるのである。
「同時に、財源維持のために、競合エネルギーの石油には、輸入関税かけられた。石油の価格を高くして、石炭に補助金を出したのだから、競争条件の変更は大きい」(75ページ)
石炭産業維持のために莫大な税負担をおわされただけではない。さらに、石油には税金が課せられ、これも国民の負担になったのである。
だが、これだけではない。税金の重さも衝撃的だが、夕張市民(たち)の生活のために日本国民が負った負担は経済的な負担だけではない。
「だが、何よりもすさまじかったのは、一九五五年から施行された「重油ボイラー規制法」である。石炭の市場を確保するために、工場ばかりか大都市のビルや風呂屋まで重油ボイラーを設置することが禁止されたのである。このため、工場地帯も都心のビル街も煤煙に包まれ、人々は煙臭い空気を吸わされたものだ。」(75ページ)
これは衝撃的だ。日本の公害の多くも夕張市や石炭産業の維持のために発生したものといっても差し支えない。このようにまき散らされた煤煙のためにみんなが、命を削って支えてやっていたのだ。このような政策の転換(石炭の産業保護の廃止)を夕張市が批判するとはどういう神経をしているのか?
なぜ、大マスコミ様は、「国のエネルギー政策」の中身が何であったかについては黙っているのだろうか?滅茶苦茶な話だ。これでは、夕張市維持のために多くの人命が損なわれたと言わないわけにはいかない。この煤煙のために多くの人命が損なわれたのだ。死ななくても寿命を縮めた人々はもっと多数にのぼるのである。
しかも、国のエネルギー政策の中身はまだこれだけではない。
「この間、日本で産出しない特定の原料炭を除いては、輸入が禁止され、石炭価格がべらぼうな高値で維持された」(75-6ページ)
したがって、「限界自治 夕張検証」の「安い海外炭との競争、(省略)、60年代以降バタバタと閉山していく」(129ページ)はウソである。酒井麻里子記者の勉強不足か、意図的なウソである。
日本国民はこれほどの犠牲を払って石炭産業と炭坑のある町を支えてきた。このようなエネルギー政策が転換されてなぜ、政府が批判されなくてはならないのか?
「「夕張は、石炭はいらないという国の政策に翻弄された。今も夕張に対する国の仕打ちはとても冷たい。三浦さんは、そう感じている。」」(71ページ)
石炭は必要ないから国に無理矢理切り捨てられたのではない。日本中が必要としていないし、使いたくもないのに、無理矢理国に石炭を使わされていたのだ。今の日本国民は、石炭を使いたくても使えない状況にあるとでも言うのか?
「夕張は国のせいでこうなった。国からいくら借金してもいい」と豪語する元市長(139ページ)
以下の記述を読んで欲しい、どこが国が夕張に冷たいのか?
「1979年度から2005年度にかけて、夕張市の財政破綻の要因となった観光事業に施設の整備費だけで147億3900万円が投じられ、このうち国の補助は21億8900万円だったことが報告された」(197ページ)
国はちゃんと補助しているのである。夕張市がお金の使い方がへたくそだっただけだ。第一、夕張市と同じような炭坑の町で福岡県の赤池町(現:福智町)は、夕張市のようにインチキせずに、きちんと財政再建団体となり、一生懸命努力して予定よりも2年も早く再建した。夕張市がヤミ起債などインチキしなければよかっただけである。血のにじむような努力をなさった福岡県赤池町の町民だった皆様方に失礼というものだ。
「国や道は知らなかったのか?」という人がいるが、「地方自治」である以上、そんなことは関係ない。
そう思って読み返すと、このようなあまりに夕張市に肩入れした、かたよったおかしな記述が目立つ。
「それよりも市は、土地の付属物、つまり、炭坑住宅、水道整備、公衆浴場、学校など、それまで炭鉱会社が負担してきたすべての社会インフラ(基盤)を整え、少しでも労働者や家族に踏みとどまってもらおうとしたのが、財政に負担をかけることになった」(130ページ)
これは、滅茶苦茶な記述だ。そもそも社会インフラの整備は炭鉱会社のやるべきことではなく、もともと地方自治体である、夕張市の仕事だ。それまで、やらねばならないことをやってこなかっただけだ。なぜ、これが財政に負担をかけることになるのだろう。自分で書いていておかしい思わないのか?
どうも、日本には、それまでの経緯は無視して、今弱い立場にあるというだけで一方的に擁護するという偏った報道が多すぎる。あきれてものが言えない。
情報源は、レーガン大統領図書館(Ronald Reagan Presidential Library)のHPである。大統領図書館は大統領記録法(Presidental Records Act)に基づいて、国立公文書記録局(NARA)によって管理されている。所在地はカリフォルニア州シミバレーだがHPのドメインはテキサス大学オースティン校(州立)となっている。しかし、国立公文書記録局(NARA)のリンク先であるので公式記録である。
当然のことではあるが、インターネットで誰でも閲覧可能である。
以下の発言に登場するMr.Friedmanなる人物は、国家戦略フォーラムの副議長である。
Mr.Freidman. Mr.President, the fifth and final question of this session is this: What do you consider to be the most important need in international relations?
フリードマン氏:大統領、5番目にしてこのセッションの最後の質問ですが、あなたは、国際関係において、最も大切なものは何だとお考えですか?
The President. The important -- --
大統領:大切な-
Mr.Friedman. What do you consider to be the most important need in international relations?
フリードマン氏:あなたは、国際関係において、最も大切なものは何だとお考えですか?
The President. Oh, my goodness. [Laughter] That is quite a question, and how to get at it? I think the need is, well, just actual frankness and a desire for a peaceful solution.
大統領:なんとしたことだ!(笑) これは問題ですね、どうやって突き止めたらいいのか?私が考えるには、必要なものは、現実の率直さと平和的解決の希望でしょう。
I think may be I'd answer it this way: In my frustration sometimes -- you know, actually, if if you count some of the things going on in smaller countries and all, there've been about 114 wars since World War II. But I've often wondered, What if all of us in the world discovered that we were threatened by a power from outer space -- from another planet.
このように答えることができると思います。私の不満ですが、あなたも知っているとおり、実際、もし、全世界で発生している出来事を数えると、第二次世界大戦以来、114の戦争がありました。しかし、私は思います。世界中のすべての人々が、宇宙から、他の天体からの勢力に脅かされているとしたらどうでしょう。
Wouldn't we all of a sudden find that we didn't have any differences between us at all -- we were all human beings, citizens of the world -- and wouldn't we come together to fight that particular threat.
突然、すべての人々がそのことに気づいたら、私たちの間の相違などはなくなってしまうでしょう。私たちは、すべて人類であり、世界市民です。そして、その特別な脅威と戦うために協力するとしたら。
Well, in a way, we have something of that kind today -- mentioning nuclear power again. We now have a weapon that can destroy the world, and why don't we recognize that threat more clearly and then come together with one aim in mind: How safely, sanely, and quickly can we rid the world of this threat to our civilization and our existence.
ある意味では、今日、私たちはその種の何かに直面しています。ふたたび核の力に言及しますが、私たちは今、世界を破壊できる兵器を持っています。なぜ、私たちは、その脅威をはっきりと認識し、心をひとつにしてその目的に向かって協力しないのでしょう?我々はどれだけ、安全に、健全に、そして素早く私たちの文明と存在に対するその脅威を取り除くことができるでしょうか。
レーガン大統領は、第40代アメリカ合衆国大統領(1981年-1989年)であった。ハリウッド俳優出身で、カリフォルニア州知事を経て、大統領になった人物である。レーガノミックスと呼ばれる一連の経済政策や「力による平和」戦略で有名であり、ソ連を内部崩壊に追い込み、冷戦を終結に導いた。
また、"The Great Communicator"と呼ばれたほどの抜群のコミュニケーション能力でも有名であったが、発言にはエイリアンの存在とその脅威を示唆したと思われるものがたびたびみられたことでも話題となった。現在では複数の動画投稿サイトで見ることができる。
上述の発言は、そのひとつと考えられているものである。もっと有名な発言もあるが、今回これを書いたのは、短いからである。読んでもらえるとわかると思うが、一部分(青色で強調した部分)だけを取り出すと、エイリアンの存在と脅威を示唆しているとみえなくもない。
しかし、すぐその下を読むとわかるとおり、エイリアンの存在と脅威は、核兵器の脅威の比喩として用いられているのである!
発言内容については、一部分を取り出してそのことについて検討するのではなく、全体を見渡して検討することが必要である。(もちろん、そのことをよくわかった上で、世論を誘導するために意図的に発言の一部だけがクローズアップされることもある)
実は、今回この発言を取り上げたのも、さいわい、エイリアン発言が、国家戦略フォーラムのQ&Aセッションでのことなので、さすがにこれはその質疑の部分だけ取り出しても問題ないであろうと思ったからである。
UFOの存在を信じる人たちに言いたいのは、政治家の発言にしろ何かの資料にしろ、自分たちの信じる説に都合のいい部分だけを抜き取ってはならないということだ。
UFOが存在しないと信じる人たちのその点で主張は、正しいと考えられる。よく言われるように、ワンフレーズだけ取り出すのはおかしいのだ。しかし、どうしてそれを調べようとしないのだろう。
というのも、この発言で単にエイリアンの脅威は核兵器の比喩として用いられていると考えるにはあまりにも奇妙なのである。
それは、
・全く存在しないものの存在を仮定するのは無理がある、ということである。
このブログで取り上げたことがあるが、アメリカは1969年にUFOは存在しないという結論を出し、軍の公式のUFO調査機関「プロジェクトブルーブック」を閉鎖している。以来、一貫してアメリカ政府はUFOは存在しないという立場を崩したことはない。
核兵器の脅威をありもしない仮定でたとえるのは、現実味に欠けており、かえって核兵器の脅威を小さく見せているように思える。本当に、核兵器の脅威の前に結束できるとは信じこませにくい。
実際、その世界の存在を脅かす脅威があれば、その世界の中の差異は消滅し、結束するであろうというのであれば、誰もが知っている歴史的事例で例えた方が、よほど説得力があるし、現実味もあると思うのである。
例えば、古代ギリシア世界において、いろいろな対立があったが、超大国アケメネス朝ペルシアの脅威を前に結束し、撃退に成功している。(ペルシア戦争)
また、その当時の超大国オスマントルコ帝国に対して、ヨーロッパ世界の諸国は結束して対抗した。(とはいっても、なかなか結束できなかった上、かなり長期間苦しめられたが)
・当時は、宇宙人の存在を仮定できても人類社会に対する脅威と考えることは難しい時代だった。
仮に、百歩譲って核兵器の脅威の例えとして宇宙人の存在を利用することに無理がないとしても当時の時代状況では、宇宙人を地球人にとっての邪悪な存在と想定することは難しかったのである。
それは、1982年に公開された映画「E.T.」(スティーブン・スピルバーグ監督作品)の影響である。この映画は、当時映画史上最高のヒットとなっており、この映画で、宇宙人と地球人の少年との心の交流が描かれた。
直接の関係があるかわからないが、1983年3月17日付けの海部元首相(ただし、当時は自民党文教制度調査会長)の「夢を信じたい」という有名な原稿(香川県高松市の自民党県連関係者宛らしい)もはじめからUFOを脅威とは全くみなしていない。それどころか、UFOは「夢」なのである。
・レーガン大統領は、「エイリアンの脅威を認識すれば世界が結束するように、核の脅威を認識すれば世界は結束する」の例え方の無理
これには、暗黙の前提があり、それは「我々は現在、核の脅威を認識していない」というものである。
ところが、一般大衆は核の脅威を認識しているのである。かなり古くなるが、1962年のキューバ危機で米ソの対立は世界戦争の危機に発展した。また、1983年の映画「ウォー・ゲーム」では、パソコン少年が、アメリカのNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のコンピュータに割り込んで、米ソが核戦争の寸前になるという、実話を元にしたといわれるものがあった。(この映画自体は核兵器ではなくコンピュータネットワークの危険性に焦点が当てられていたが)
また、政治家レベルでも核兵器の脅威ははっきりと認識されていた。
ざっとあげてみると、
1982年 米ソSTART(戦略兵器削減交渉)開始
1985年 米ソ首脳会談(ジュネーブ)(6年半ぶり)
1986年 米ソ首脳会談(レイキャビク)
1987年 米ソINF(中距離核戦力)全廃条約調印
米ソ首脳会談(ワシントン)
1988年 米ソ首脳会談(モスクワ)
さらに、アメリカは大陸間弾道弾を無力化するために、1983年にSDI(戦略防衛構想)を打ち出している。
核兵器の脅威を一般国民も政治家もよく認識していたのである。それにもかかわらず、人類社会は結束などしていなかったことは明らかであり、レーガン大統領の発言とは現実は異なっていた。
レーガン大統領のエイリアン発言はたしかに比喩として用いられている。しかし、発言内容や当時の状況を考えるとどうも発言には何かの意図があるように思われる。(だからといってここにある情報だけからはとてもエイリアンの存在の示唆を意図しているという結論は出せない)
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「 「消費者がやかましい」と発言した太田農水相に対し、自民党の麻生太郎幹事長が「関西以西の人はみんな言う。うるせーという意味じゃない。よく知っているという意味だ」と擁護した。二人とも福岡県選出の衆院議員。本当にそういう意味なのか、方言の専門家に聞いてみると――。」(江崎憲一、田中久稔)
朝日新聞は、わざわざ多くの方言の専門家に問い合わせているのである。以下は、すべて朝日新聞の取材である。
「九州方言研究会」を主宰する福岡教育大の杉村孝夫教授(方言学)
「確かに「やかましい」には方言で「詳しい」という意味があるが、文脈を考えると、「詳しい」という意味には受け取りにくい」
「日本方言大辞典」(小学館)
「長崎市で使われる「やかましい」の意味として「難しい、複雑だ」に加えて、「好事趣味などに凝っていて詳しい」と記されている。」
国立国語研究所
「「『詳しい』という意味の方言も、元々『騒がしい。煩わしい』などという意味から転じて用いられたもの」と指摘。「『国民がやかましい』と言った場合、国民に対して尊敬の念というより、用心しなければいけないというニュアンスが含まれていると理解するのが一般的。ほめことばとは取れない」」
元福岡地検副検事の松崎真治さん
福岡での普段の会話では、物事に詳しいことを『やかましい』とは言いません。博多弁が間違った意味で広まったら迷惑」
と、よくもまぁねちねちとしつこく聞いて回っているのである。
もちろん、私も、太田大臣の発言については、国民をコケにしているとしか聞こえない。
しかし、気になるのは朝日新聞の対応だ。政治家の発した言葉の意味については識者に聞いて回っているが、自分たちの使った表現が人様からどうとられるかについてはついに専門家に聞いていない。
自分たちが何をしたかすっかり忘れているのである。
以下を読んでもらいたい。同じ朝日新聞の8月2日「本社回答に「納得」 素粒子問題で犯罪被害者の会」からである。
「朝日新聞社は同日、「死に神という表現が犯罪被害者遺族の方々にどんな気持ちを起こさせるか思いが至らなかった」として「適切さを欠いた表現だった」と回答した。
代表幹事の岡村勲弁護士は会見で、朝日新聞社の回答について「いろいろな思いがあるが、納得しました」「大臣であっても、死に神と言われればぞっとしますから(使わないでほしい)」と述べた。
◇
全国犯罪被害者の会からの4点の質問項目に対する朝日新聞社の回答は次の通り。
▼「永世死刑執行人」、「死に神」という言葉の意味は
「永世死刑執行人」というのは、6月18日付夕刊の素粒子の1項目目にある将棋の「永世名人」から連想し、筆者が考え出した言葉であり、比喩(ひゆ)です。「死に神」も同じように比喩です。その意味合いは「人を死に誘うような神」「人を死に至らしめるような神」ということですが、用語の意味を説明するだけでは、その言葉を使った意図についてご理解いただけないと思います。
このような表現になったのは、鳩山法相がほぼ2カ月おきに死刑の執行を命じ、就任から1年足らずで執行数が13人になったということだけではなく、これまでの回答で繰り返しご説明しているとおり、その前の法相の発言があったからでした。
法相の死刑執行命令は法に基づくものであり、鳩山法相が命令したことをもって「死に神」と批評したものではなく、執行命令自体を批判するつもりはありません。
「死に神」という表現に対しては、読者の方々から「法相は職務を全うしているだけだ」「ふざけすぎだ」というようなご意見がたくさん寄せられました。
弊社としましては、もっともなご意見だと受け止めております。
▼13人の死刑が多いとすると、何人ならよいのか、死刑囚の数が増え続けてもよいということか
13人の死刑が多いと言っているのではありません。最近の法相の中で執行数が多いと指摘したものです。件数が適正でないと言っているわけではありません。凶悪な事件が増え、死刑判決が増えれば、執行数も当然、増えていくと思います。
▼死刑執行に対しては法務大臣のどこが慎重さを欠いたのか、慎重にするためにはどうすべきであったか、慎重の内容は何か
「朝日新聞社は死刑廃止の立場はとっていません。そのうえで、死刑は人間の生命を絶つ究極の権力行使であるため、執行にあたっては慎重のうえにも慎重な対応を求めてきています」という先の回答に対するご質問だと思います。
鳩山法相が慎重さを欠いたと言っているわけでは決してありません。死刑確定後、法務省は裁判記録をもう一度調べ、判決に疑問がないかを確かめると聞いています。そうしたことに念には念を入れてほしいという趣旨です。
▼死刑確定後は遺族の存在を忘れるのは、なぜか
「死に神」という鳩山法相に向けた表現が犯罪被害者遺族の方々にどのような気持ちを起こさせるかについては、思いが至りませんでした。犯罪被害者遺族の方々だけでなく、どのような人にどんな思いを起こさせるかについても、考えが及んでいませんでした。職業や立場によっては、まるで自分のことを言われたようだと受け取った人がいました。「死に神」という言葉そのものに不快な気持ちを抱いた人もいました。
犯罪被害者遺族をはじめ多くの方々からのご批判を踏まえたとき、適切さを欠いた表現だったと言わざるを得ず、出稿の責任者である論説副主幹は「自らの不明を恥じるしかありません」と述べています。弊社としても同様に受け止めています。
犯罪被害者遺族の方々が凶悪事件の被告に死刑判決を求めたり、確定死刑囚の執行を望んだりするお気持ちについては十分理解しております。そのことも重ねて申し上げます。
以上、回答とさせていただきます。ご理解をお願い申し上げます。 」
読むとわかるが、自分たちの表現がどうであったか専門家の意見は全く聞かず、独善的に判断しているのである。
・それだけではない、なんと!「用語の意味を説明するだけでは、その言葉を使った意図についてご理解いただけないと思います。」と言っているのである。
すなわち、私たち(朝日新聞)の文章は難解すぎてレベルの低い人たちには理解できないと言っているのである。難解なのは文章がへたくそなだけだが、完全に自分たちはレベルが高いがお前たち(このブログの筆者である私も含めた朝日新聞以外のすべて)はレベルが低いと言っているのである。
これは偏見でもうがった見方でもない。なぜなら、朝日新聞は、1991年には堂々と、「私の意見は朝日新聞の受け売りです」というコピーで売り出していたのだ。
これはつまり、「ものを考える力は、我々朝日新聞にしかない、お前たちには考える力などなく単なる記憶マシーンだ」と言っているのだ。朝日新聞は謝罪しようと何も変わっていないのである。
・「鳩山法相が命令したことをもって「死に神」と批評したものではなく、執行命令自体を批判するつもりはありません」といっているが、「死に神」が結局何を指していたのか全く答えていない。なぜ、専門家の意見を聞かないのだろう。もちろん、百パーセント鳩山法相(当時)を指すと言われるからだ。
しかし、太田大臣、麻生幹事長の発言だけはしつこく専門家に聞いて追究しているのである。
・「この回答は、朝日新聞がこれまで死刑執行について慎重な対応を求めてきたという一般論です。」一般論であるならば、なぜ、鳩山法相(当時)だけを名指しで、批判したのだろうか、なぜそのことについて専門家の見解を求めないのか!
・「鳩山法相が慎重さを欠いたと言っているわけでは決してありません。死刑確定後、法務省は裁判記録をもう一度調べ、判決に疑問がないかを確かめると聞いています。そうしたことに念には念を入れてほしいという趣旨です」
「死刑確定後、法務省は裁判記録をもう一度調べ、判決に疑問がないかを確かめると聞いています」というのなら、法務省が慎重さを欠いているとは言えないはずだ。念には念を入れてほしいというが法務省は念には念を入れており、そのことを朝日新聞自体が認めているのである。「念には念を入れている」組織に「念には念を入れて欲しい」というのは何も言っていないと言いたいとしか思えない。
要は「死に神」発言はなかったことにしてくれと言っているのだ。
朝日新聞は、さっさと自分たちの不当な表現は忘れ他人の言葉狩りに血道を上げている。彼らの言葉狩りの執拗さと激しさと陰湿さは、彼らの唯一の生き甲斐であり、彼らの存在理由から来るのであろう。こういう人間たちが学校でいじめを繰り返していたのだろうか。(ただし、繰り返し書くが、私も太田大臣に腹を立てている。ただ、朝日が批判できる筋合いではないと書きたいのだ)
結局、朝日新聞は未だに天動説を信じ、世界の中心に朝日新聞が君臨しているという考えを維持しているのである。